ある日の板倉

群馬県は、関東平野と北部山岳地帯との境目である。その南東の端、利根川と渡良瀬川が合流する遊水地帯の北に、日本でも最大級の板倉滑空場がある。
山と平野の境目は、グライダーにとって極めて良好な気象コンディションを生み出す格好の地だ。山の斜面は日光によって熱せられやすく、この熱が周辺の大気を浮揚させる。谷には風が集まり、斜面がその風を立ち上げる。また山越えの風は波動し、超えた山の数倍もの高さにまで影響を及ぼす。
グライダーを飛翔させるのに欠かせない、ダイナミックな上昇気流を発生させる条件が、ここ北関東には揃っているのだ。


朝の風景◇
土曜日。早朝から集まってくるのは常連の面々である。都内からのメンバーが多いが、毎週、御殿場から通ってくるつわものもいる。
グライダーのフライトに気象情報の収集は欠かせない。1日の大半を屋外で過ごすパイロットたちも、朝のうちはコンピュータのディスプレイから目が離せない。インターネットを通じて最新の気象情報を入手し、自分なりの分析を加える。マイナーな気象サイトから入手した情報に、オリジナルのアプリケーションで分析を加え、独自のフライトプランを作成するパイロットもいる。
板倉で活動する機体は、グライダー曳航用の飛行機、複座(二人乗り)の練習機、高性能のプラスティック機である。ここ数年、単座の高性能機の数が増え、多いときには十数機のグライダーが滑走路に並ぶことになる。
パイロット達は必要な情報を手に入れると、それぞれ機体の搬出、飛行前の点検などフライトの準備を始める。曳航機パイロットの手により、飛行機のrun upが開始される。


◇Early Birds◇
その日の最初のフライトは練習機であることが多い。
スチューデントパイロットとインストラクターは、簡単な打ち合わせを済ませて、次々と飛び立っていく。グライダーはスポーツであり、他の航空関係のトレーニングとは趣を少し異にする。あくまで飛行を楽しむのがグライダースポーツであり、だから、ここには「訓練」といった堅苦しい雰囲気は全く無い。数年前までは、かつての悪しき慣習を引きずり、体育会系の硬直したトレーニング体系を維持する社会人クラブもあったが、次第にそのような雰囲気は影をひそめつつある。
スチューデントパイロットは、いくつかの異なるメニューを組み合わせた「課目」と呼ばれるトレーニングフライトを行う。約15分、長くても30分程度のフライトだが、決して単調なものではない。多くはインストラクターが同乗して行うが、ライセンス取得間近のパイロットには、ソロフライト(単独飛行)が課せられる。
ソロフライトは、フライトに関わるさまざまな問題を自分だけで解決することが求められるという点で、スチューデントパイロットにとって非常に重要な関門だ。初めてのソロフライトは当然、最もエキサイティングな、そして恐らく生涯忘れられないフライトとなる。
ソロフライトの中で最も重視されるのは「着陸」である。グライダーにゴーアラウンド(着陸やり直し)はない。いきおい、初めてソロで飛ぶスチューデントパイロットの着陸には地上にいる仲間達すべての視線が集中する。


◇待ち時間◇
高性能機のパイロットは、長時間、長距離のフライトを狙い、サーマル(上昇気流)コンディションの最も良い時間帯を待つ。
このような時間帯には、機体待ちの初心者、条件待ちの上級者、スタンバイのインストラクターなどが、茶を飲み、冗談を交わしながら、今日のフライトを前にリラックスする。ウィークディには、それぞれ別の顔を持ち、年齢も地位も悩みもまちまちな大人たちが、週末のこの場所では、同じ冒険を求めて語り合う。束の間の穏やかな時間。
だがそんな時でもパイロットたちは、最良のサーマルコンディションを逃さないために、空の様子を伺うのを忘れない。

◇離陸ラッシュ◇
午前11時を過ぎると、そろそろ単座機の離陸が始まる。
離陸は、早すぎれば良いサーマルを捉える前に着陸しなければならず、遅すぎれば距離を伸ばすことがむずかしい。ベストの条件を狙うと、その時間帯は30分以内に集中することも珍しくない。ほんの5分程度で、十機以上の曳航待ちの列ができる。最後尾のパイロットは、空へ上がるまで1時間以上の待ち時間になる。


単座機の離陸が始まると、にわかに無線交信が活発になる。離陸、離脱を伝える声、他のエリアの状況を聞く声、現在の状況を伝える声。たくさんのパイロットが同じ周波数にチェックインし、互いの情報を共有しようとする。
「2468。こちら2427。現在小山の東15km、5,000ft。そちらの状況は?」
「2427、2468。いま栃木の北を通過して西に向かっています。5,800ft。前線のラインが見にくいねえ」
「了解。2494はどうですか?」
「こちら2494。ゴメン、ちょっと今、それどころじゃない!」
早くも筑波に到達したパイロットがいて、板倉の空域から抜け出すのに苦労しているパイロットがいる。広い範囲で気象条件を把握し飛行コースを見極めることは、グライダーのクロスカントリーでは非常に重要な要素なのだ。

◇帰らぬ機体◇
冬には午後3時を過ぎると日射が低下し、サーマルも力を失う。ベストの状態が終わると、単座機は帰りのことを考え、練習機も撤収の準備が始まる。
「2427、現在足利4,000ft。ファイナルグライド開始」
帰って来る単座機からレポートが入る。
夕日に映えてキラキラと輝きながら、滑走路に続々と機体が帰還する。思い通りのフライトができた満足感、サーマルを捉えるのに失敗した挫折感、皆の間にさまざまな感情が渦巻き、誰もが少しハイになる瞬間だ。


そんな中、まれに帰って来ない単座機がある。サーマルをうまく捉えられずに高度を失い、やむを得ず、川原や空き地などに着陸してしまう。当然、そこから離陸はできないので、仲間がグライダー用のトレーラーを引いて回収に行く。飛行すればたかだか1時間程度の場所でも、陸路、トレーラーを引いて、となると数時間かかることもある。回収は深夜に及ぶ。


---*---

◇一日の終わり◇
世界中、場所や季節にかかわらず、昔からフライトが終わった後のフライングクラブで、パイロットがやることがある。それは、ビールを飲むこと。
板倉滑空場でも、もちろんパイロットの伝統は尊重されている。
土曜日の晩のクラブハウスでは、たくさんのメンバーがくつろいで今日のフライトについて語る。初心者には初心者の、上級者には上級者のフライトがあり、誰のフライトであろうと、この瞬間には語るべき内容、聞くべきエピソードが含まれている。上下関係もなく、フライトの専門用語が飛び交い、仲間内の冗談に笑いが起こる。本来、「クラブ」という言葉が醸し出すコミュニティの雰囲気とは、こういうものではなかっただろうか。
春にはヒバリがグライダーと共に舞い、初夏にはハンガー(格納庫)の壁でカッコウが鳴く。冬にはストーブの灯油の臭気が漂い、そして仲間達には暖かな「クラブ」がある。
板倉滑空場には昔懐かしいものが、まだずいぶん残っている。