エピソード2

昭和27年(1952年)3月14日、戦後長らく続いていた航空機の生産禁止が解除。そして同年 5月7日、わたしたちのクラブの「霧ヶ峰式鷹七型ソアラー」によって、ついに戦後初めて日本人による日本の航空機のフライトが行われました。操縦桿を握ったのは、クラブ員の藤倉三郎氏と、清水六之助氏。それぞれ1回ずつ、いずれも高度10メートルに満たないフライトではありましたが、この日こそ、日本の航空再開の日でした。

つづく11日に行われた公開飛行には、この歴史的な喜ばしい出来事を一目見ようとおよそ2万人の観衆が詰めかけたと記録されています。当時は滑走路も、グライダーを曳航する飛行機も、ウインチもなく、川崎市の丸子橋上流の河川敷にあった自動車のレース場、多摩川スピードウェイで、滑車を利用して曳航速度を2倍にした自動車曳航を行っていたそうです。

JA2001
霧ヶ峰式鷹七型ソアラー(スパン10.8m、全長5.8m、主翼面積14.4平方メートル、 重量122.5kg、滑空速度50km/h、滑空比約16)
戦後、日本で1番目に登録された第2種グライダー。昭和32年頃まで当クラブで活躍。

その後、昭和36年(1961年)に群馬県板倉町を本拠地とし、念願の専用滑空場と格納庫を完成させました。初めは文字通り「草ボウボウ石ころゴロゴロ」の原野に過ぎなかった渡良瀬川の河川敷を国から借り受け、クラブ員自ら開拓者のように整地、開墾し、滑走路として利用できるよう整備しました。東北縦貫自動車道の建設に伴い、昭和45年(1970年)に現在の場所(板倉町除川)に移転し、また一から開拓して、今では99,371平方メートルという広大でよく整備された専用滑空場を使用しています。

クラブ員自らによる滑走路の整地作業

昭和43年(1968年)から世界滑空選手権へクラブ員を送り出すなど、常に日本のグライダー界をリード(?!)してきたわたしたちのクラブは、昭和46年(1971年)、「グライダーを通じて、航空知識の普及と航空関係技術の向上をはかり、広く各国グライダー界と交流し、わが国グライダー界の発展に貢献する」ことを目的とした公益法人である社団法人になりました。その後、2008年の公益法人制度改革に伴い、平成24年(2012年)より公益社団法人に移行しています。

クラブの歴史は、まあこんなところです。今日までいろんな苦労もあったようですが、今も昔も変わらないことがひとつだけあります。それは、空を愛する仲間が集まって、安全なフライトを楽しむこと!

こんな歴史を持つわたしたちのクラブにご興味を持たれたあなた、いちど板倉滑空場へ遊びに来ませんか?

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