第2次世界大戦で敗戦国(被占領国)となった日本は、戦後その上空を自国の航空機が飛ぶことは許されていませんでした。昭和26年(1951年)9月8日、歴史の教科書に載っている「サンフランシスコ講和条約」の調印式で、日本全権の吉田茂首相が48ヵ国の各国代表と共に署名して、やっと日本(領土+領海+領空)は日本人の手に戻ることになりました。
条約発効後いち早く、「日本人が日本の航空機で日本の空を飛ぶ」ために、当時の空の第一人者と空を愛する仲間が集まり、「日本グライダー倶楽部」が発足しました。昭和26年10月1日に日本工業倶楽部で行われた発会式には、当時の日本の航空界を代表する重鎮のほとんどが出席しています。例えば、クラブの会長であり前大蔵大臣の泉山三六氏、時事新聞(現 読売新聞)社長の長谷川才次氏、後の日本航空社長・会長の松尾静磨氏、後の日本エアシステム社長の大場哲夫氏などです。